49歳で総合診療医の道へ、行政からの転身|都農町国民健康保険病院・伊東先生インタビュー

 2020年に都農町国民健康保険病院で開始された「総合診療科」には、現在5名の医師が常勤しています。今回お話を伺った伊東芳郎先生もその内の一人です。

 伊東先生は医学生時代に医師免許を取得。しかし、卒業後に就いたのは臨床医の仕事ではありませんでした。医師としては珍しいキャリアをお持ちの伊東先生に、総合診療医になるまでの経緯などについて伺いました。

「人が行っていないところに行ってみよう」と厚生省へ応募

——伊東先生が一番最初に就いたのはどのようなお仕事でしたか

 厚生省・厚生労働省(2001年に厚生省と労働省が統合)に15年勤めました。宮崎医科大学(現:宮崎大学医学部)を卒業するときに、どの診療科に進むかとても迷ったんですよ。当時の宮崎医科大学には救命救急科や総合診療科などはなく、どれもこれといった決め手が見つかりませんでした。そんな時に学生課で厚生省の募集要項を見つけて、「人が行っていないところに行ってみよう」と応募しました。

——多くの医学生が医師になる中で、不安などはなかったんですか?

 「100人いる同級生の中で、1人くらいは違う道の人がいてもいいんじゃないかな」と思いました。若気の至りです。

——厚生省に行って「こういったことをしてみたい」というイメージはありましたか?

 例えば病院への規制など、私たちの知らないところでいろいろな政策が決まっているように感じていたので、「なぜこういうことになるのか、医療政策の現場を見てみたい」という気持ちはありました。

——実際にお仕事を始めてみて、最初のころはどんな印象でしたか?

 最初は医療政策に携わることができず、環境庁で水俣病などの公害を担当していました。どのような仕事でも同じだと思いますが、慣れれば楽しさが出てきましたし、厚生省の医系技官同士で勉強会をしたり、いろいろな政策の話ができたりしていたので充実していましたね。

——厚生省・厚労省での経験が今の仕事に役立っていると思うことはありますか?

 厚労省で最後の方は医療政策に関わりましたが、今後医療がどのように進んでいくかという骨格、あるいは厚労省のものの考え方を理解しているので非常に役立っています。

——その時の立場から医療はどのように見えていましたか?

 以前は臓器別の専門分野を中心に診る医師が多かったのですが、2004年に臨床研修の必修化が始まったことですべての医師がプライマリケアをできるようになり、全体的なベースが上がったと思います。

臨床研修とは…

将来専門とする分野に関係なく、一般的な診療で関わることの多い負傷や疾病に適切に対応できるよう、基本的な診療能力を身に付けるための初期研修。医師国家試験に合格後、診療に従事しようとする医師は、都道府県知事が指定する病院、もしくは厚生労働大臣が指定する外国の病院において、2年以上の臨床研修を受けることが義務付けられています。

それぞれの希望の形を達成するのが、真の“終末期医療”

——厚労省の後はどのようなお仕事をされましたか?

 宮崎に帰ってきて保健所に勤めました。厚労省も含めると行政には23年いましたね。

——厚労省から保健所の仕事に変わったことでギャップはありませんでしたか?

 厚労省では全国津々浦々に広がっていく政策に関わっていたので、そうしたダイナミズムさはなくなりました。ただ、保健所では「宮崎で始めたことが全国に広がるような政策や事業をやりたい」と思っていました。

——例えばどのようなことに取り組まれましたか?

 地域の医師会の方々と一緒に、「終末期医療」について考えてもらえるような講座の開催、リーフレット・パンフレットの作成に取り組みました。

 その当時、行政が終末期医療・人生の最終段階について話すことはほとんどありませんでした。保健所は「“健康づくり”のために働く」という意識があったと思いますし、そもそもそこまで手が回っていないのが現実でした。しかし、終末期医療の問題は高齢社会の中では重要ですし、団塊世代の年齢が上がるにつれて住民の関心も非常に高まっていました。

——そうしたことに取り組みたいと思ったきっかけが何かあったんですか?

 厚労省で終末期医療を担当していました。私が担当していた2008年頃は、「最期は自宅で」という地域もあれば、「最期くらいは病院で」という地域もあり、考え方がさまざまでした。

 行政はどうしても「在宅医療」を推進しているように見られがちですが、私は「それぞれの希望する形を達成してあげるのが真の終末期医療」という考えを持っていました。厚労省でそういった経験をしたので、「住民の皆さんに医療を押し付けるのではなく、それぞれに考えてもらいたい」という思いで取り組みました。

——私たちも在宅医療には良いイメージを持っていますが、要は「選べる」ということですね?

 そうですね。そのことを医師にも間違えないようにしてもらいたいですし、患者さん家族にもそのように話すべきだといつも思っています。

訪問診療を西都・児湯地区でも一般的なものにしたい

——どういった経緯で現在の仕事である総合診療医になられたのですか?

 もともと学生の時から救急や総合診療の世界には興味がありましたが、二十数年が経過して医療も変化しています。臨床医をやるにあたって、「きちんと研修を受けた方がいいな」と思いました。私のようにブランクのある人にも対応できる研修プログラムが作られていたのが総合診療科でした。

——学生時代に学んでいたとはいえ、「転職」とも言える大きな決断をされたと思うのですが、それは何歳の時だったんですか?

 49歳の時です。前半の二十数年は行政で公衆衛生に関わってきて、残りの25年くらいは臨床医ができれば、それはそれで充実した人生だと思いますね。

——総合診療医になられてから今までを振り返っていかがですか?

 大変なこともありますし、私が学生時代に学んでいたこととは全然違いますが、いろいろな先生の指導や支えがあるおかげで充実しています。臨床のことが分かりつつある4年目ならではの楽しさがありますね。

——総合診療医のどんなところに可能性を感じますか?

 厚労省では“かかりつけ医”に関するいろいろな議論が交わされています。時間がかかるとは思いますが、いずれそれが具体的に定義される時代になるのではないかと考えています。そうした時に総合診療医が重要な役割となっていくのではないでしょうか。体系的に幅広く学んだ総合診療医は、出番が多くなっていくと思います。

——「どの診療科を専攻しようかな」と悩んでいる医学生に対してアドバイスを送るとしたら、何と伝えたいですか?

 50年くらい従事することになる仕事ですので、まずは自分の好きなところに進んでほしいと思います。ただし、もし開業医を目指すのであれば、専門医であってもどこかのタイミングで総合診療科の研修を受けた方がいいと思います。それは患者さんのためにも良いことですし、臓器別の診療科で「患者さん全体をみる・地域全体をみる」といった視点を養うことはなかなか難しいことだからです。

 また、もしどの診療科にするか決めきれないのであれば、総合診療科や救命救急科などの道に進むのも一つの手だと思います。幅広く診る中で、自分のやりたいことや地域に不足している診療科が見つかるかもしれません。

——患者さん全体をみる・地域全体をみる“コツ”のようなものはありますか?

 家にいる時の患者さんの姿は、病院では分からないですよね。訪問診療で診る時の方がより実態に近いですし、どういった家族構成なのかなど田舎にある総合診療科だからこそ分かることもあります。また、「こういう制度を使えば患者さんの負担が少なくなる」といったことが分かるのは、行政から転向した私の強みでもありますね。

——最後に今後の展望を聞かせてください。

 訪問診療や外来などで患者さんを診ること自体が楽しいので、それが続けられたらいいなと考えています。また、宮崎市では訪問診療が充実していますが、西都・児湯地区においてはまだ一般的ではありません。どの地域であっても患者さんが住み慣れたところで暮らし続けられるよう、まずは“治し支える医療”を実践していきたいと思います。

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