「生甲斐元益(しょうがいげんえき)」高齢者の元気はまちの未来につながる
今回つのまるのとりくみ取材班がインタビューを行ったのは、令和5年9月に都農町長に就任された、坂田広亮(ひろあき)氏。つのまるのテーマである「地域共生社会」や「地域包括ケア」についてどのように考えていらっしゃるのかを伺ってきました。
坂田町長は令和4年の7月に、約35年間勤務した都農町役場を退職。周囲から「町長選挙は令和5年の9月なんだから(令和5年)3月までおりないよ」とすすめられたそうですが、あえて年度途中での退職を選択されました。
インタビューではその本当の理由や今後のビジョンなども語られています。「坂田町長ってどんな方なんだろう?」「都農町は今後どうなっていくの?」と気になっている方は、ぜひ最後まで読んでみてください!
健康を土台とした地域共生社会
——まずは地域共生社会をどのように目指していくのかお考えを聞かせてください。
坂田町長(以下、敬称略):大きな柱となるのは「健康」です。そのうえでいろいろな立場の方をどう支援していくのか、「地域福祉計画」をもとに実践したいと考えています。地域福祉計画というのは、私が退職する前の令和4年3月に、他の職員と一緒にまとめたものです。
その中に「生甲斐元益」という言葉が書かれているんですね。これは「生きがい・元気・ゆたかさ」を当て字で表現しています。この生甲斐元益を今も実践したいと考えているんですよ。本当は選挙でもこれをうたいたかったのですが、当て字では伝わりにくいだろうと思い、一般的な「生涯現役」を使用していました。
生甲斐元益には利益の「益」が入っています。都農町にはシルバー人材センターがありませんが、例えばポイント制の有償ボランティアなど、少しでも豊かになるようなしくみを作りたいです。それが生きがいにもつながればいいなと考えています。
先日から老人クラブの定例会に出席させていただいていますが、その中で皆さんが「社会貢献をせんといかん」「都農町に恩返しをせんといかん」と言ってくださるんですよ。本当にありがたいです。
高齢化が進み誰がまちを支えていくのかという局面では「高齢者の皆さんにも期待したい」「だったら生涯現役だよね」というところから、生甲斐元益につながっています。
——最期まで自分のまちのために働きたいと考えている方が多いのですね。
坂田:例えば高齢化が進み担い手といわれる若い人がいなくなって、今自治会単位で行っている道路の清掃や公民館の管理ができなくなったとしますよね。でもそれを役場がすべてカバーするのは難しいと思うんですよ。
だから老人クラブや自治会でも「できない」ではなくて「どうすればできるか」を考えましょうという呼びかけをしています。令和5年12月からは、自治会単位で地域の現状把握や課題解決に取り組んでもらえるように、支え合いマップの作成を始めました。
その地域で誰がお世話役なのか、誰が困っているのか、一人暮らしの家はどこなのかといったことを地域の方たちが把握することで、最終的には自主防災に結びつけたいと考えています。
——地域包括ケアはそれぞれの立場によって見え方が変わってくると思うのですが、関わる人全員が理想と思えるような地域包括ケアにしていくには、町長としてどのような旗振りが必要だと考えていらっしゃいますか?
坂田:真ん中に住民の皆さんがいて、いろいろな団体・機関がそれぞれの立場でしっかり支えていくのが包括ケアですよね。デイサービスや老人ホームなどの施設もその一部ですが、都農町にはそうした施設が少ないのが現状です。
でもサービスを増やせば増やすほど介護保険料の負担率、自己負担はどんどんかさんでいきます。在宅福祉を推進し、最小限の負担で、できるだけ健康でいていただくのが理想だと思います。
真ん中に住民の皆さんがいてそれを囲むという地域包括ケアの見せ方もありますが、まずは健康、そのうえでいろいろな立場の方を支援していくというのが私の考えです。健康を保つために医療がどれだけカバーできるかが、地域住民の皆さんに対して一番最初に行うべきサービスだと思います。
健康であれば支えていく立場にもなれますよね。支えられる人よりも、支える人を増やす地域包括でありたいと考えています。だから地域で支え合いマップの話し合いをして、いろいろな方に支える側に回っていただきたいんです。足腰が弱くなって本当に困っている80歳の人を70歳の人が助ける、支え合っていく。そうした包括支援を実行していきたいですね。
首の手術と父の認知症が退職の決め手に
——役場を退職されたのは地域福祉計画を作りあげたタイミングですか?
坂田:実は計画を令和4年の3月にまとめたあと、4月の1ヶ月間は入院していたんですよ。以前からヘルニアを患っていて、その手術をする前にレントゲンを撮ったら、首の靭帯が切れて骨のように固まっていると言われました。
痛くはなかったのですが、それが神経に当たって手がしびれ出したんですよ。そのしびれを緩和するために、後ろの骨を切って神経が逃げられるようにする手術をしました。
もし後遺症が残ったらいやだなと思っていましたが、退院して帰ってきたら大丈夫そうだったので、令和4年の7月に退職しました。周りからは「町長選は令和5年の9月なんだから(令和5年)3月までおりないよ」と言われたんですよ。もちろん町長選も視野にはありましたが、7月にやめる選択をしました。
——町長選への出馬が直結の理由ではなかったのですね?
坂田:実は父が認知症になり、令和4年7月に運転免許証を返納しました。両親はまだカボチャなどをつくっていましたが、どんどん手が回らなくなっていて、退院して帰ってきたら畑の草が伸び放題だったんですよ。今までは父が草刈りをやっていましたが、それができなくなっていました。そうした状況だったので、「両親に農業で育ててもらったから少しぐらいは加勢せんといかんな」と思って7月にやめました。
——お父さまはずっと農業で生計を立てられていたんですか?
坂田:65歳までは川南町の養豚場に勤めていました。それと並行してやっていた形です。
——お父さまとは違うお仕事を選択されたのですね?
坂田:もし両親が農業だけで生計を立てていたら継ぐという選択肢があったかもしれませんが、私が就職するころは父も母も勤めに出ていました。畑でいろいろとつくってはいましたが、当時はまだ片手間のような感じで、継ぐほどの規模ではなかったんですよ。
ただ65歳で定年したあとはバリバリやっていましたね。83歳くらいまで20年近く農業をしていました。
——一番身近な“生甲斐元益”がご両親だったんですね!
坂田:そうですね。私も父が認知症だと分かるまでは、定年まで役場に勤めて、父から習いながら農業をする方が生甲斐元益だなと思っていました。でも認知症になってからは農業を続けていくのは難しそうでしたね。
——ご自身の健康やお父さまの認知症など、身近な問題からもつながっていたんですね。
坂田:農業の後継者がいない、父は高齢で認知症になるという、地域の困りごとが一度にやってきました。だからこそ「このままじゃいかんな」「地域福祉計画を絶対実行せんといかんな」と常々考えていましたね。
原点は健康管理センターで担当した“自殺対策”
——「町長を目指そう」という思いはいつごろからあったのですか?
坂田:「やるからには」という思いは以前からありましたが、町長選に出ようと決めたのは、ふるさと納税の問題が起きたときでした。私は保健福祉センターを作る計画の担当として健康管理センターに異動したのですが、当時は都農高校に作ってみてはどうかという話が出ていたので、健康管理センターではその議論がストップしていました。
コロナ禍になってから健康管理センターでは新型コロナのワクチン接種が始まり、集団接種の会場案内などの仕事をしていました。その間にふるさと納税の問題が起きて、お問い合わせ対応にきてくれないかという話がきたんですよ。
役場の新館の3階に電話を10台ぐらい置いてすべて職員が対応しました。「運営責任者に代わってほしい」と言われたら私が電話を代わっていましたが、最終的には電話の数が多く対応しきれなかったので、管理職の課長にも対応してもらいました。
そうした対応をしていたときに、ある町民の方から「このままではやばいぞ。どうにかせんといかん。町長選への立候補を考えてみたらどうか」と言われたんですよ。それが1人や2人ではなかったんです。「そうやって言われるうちが花だから、がんばってみようかな」と思ったのですが、実はそのころから手がしびれ始めていました。
11月ごろにふるさと納税の問題が起きて、対応しているうちに年を越して、2月ごろにはまたワクチン接種が始まり、3月に「手術した方がいい」と言われて4月に手術をしました。後遺症もなく、なんとかなりそうだったので退職したという流れですね。
——激動の数年間だったのですね。福祉や地域共生社会への関心が高くなったのは、やはり健康管理センターへの異動がきっかけですか?
坂田:そうですね。若いころに少しだけ福祉課にいたことがあって、事務的なことは経験していましたが、保健事業は初めてでした。私は保健師等の専門職ではないので最初は出番も少なかったんですよ。予算の事務や保健福祉センターのことを考えるだけでなく、プラスで何かしたいと思って担当したのが、自殺対策の窓口でした。
ただ実際にそうした相談を受けるのも保健師の方なんですよ。私は「この期間に相談を受け付けています」という自殺対策月間の啓発活動をしたり、「何でも相談してくださいね」という内容の広報誌を出したりしていました。
保健師の方は忙しいので、自殺対策関係の研修も私が行っていました。その研修の中で学んだのが、何か一つのことが原因で自殺される方は少ないということでした。ご近所付き合いや家族の問題などいろいろなことが重なり、自分でクリアできなくなって、うつになったり亡くなられたりするケースが多いことを知りました。「表には見えないけれど、地域にもそうした方がいらっしゃるのかもしれない」とずっと思っていたんですね。
そうしたときに、保健事業の窓口だけではなく、各課で自殺対策について考えてくださいという風に国の方針が変わったんですよ。それでいろいろなところの計画を参考にしながら私も自殺対策計画を作り、各課に「何ができるかを考えてほしい」というお願いをしました。でも職員たちはピンときていないようで、反応が返ってこなかったんです。
例えば水道課だったら、メーターをチェックするときに「最近見かけないけど大丈夫かな」と気にかけて声がけするということならできると思うんですよ。国としてはそうした底支えの話がしたいんだと思うのですが、職員ではなかなか対策が思い浮かばない様子でした。デリケートな問題ではあるので、私も「それはそうだよな」と思っていました。
そこで自殺対策計画を単体ではなく、地域福祉計画の中に盛り込んで実行してはどうかと考えたんですよ。いろいろなことが重なって追い込まれてしまう前に、地域で支えたり困りごとを解消したりできれば、極論、自殺される方も減るかもしれないと思って、合体させました。だから自殺対策が私の原点でもあります。
医療と連携し「保健福祉センター」で町民の健康を維持
——これは都農町国民健康保険病院の桐ケ谷院長からの質問なんですが、町長として病院・総合診療にどのようなことを期待されていますか?
坂田:町立病院はまだ町民の皆さんにとって“おらが町の病院”になっていない部分があるのかなと感じています。「うちの町には町立病院があるんだ」と誇れるような病院になってほしいです。それは日々の積み重ねでしか解決しないところもあるかもしれません。
ただ総合診療科ができたおかげで、安定的に患者さんに対応できているのは事実です。本当にありがたいなと思っています。
ゆくゆくは病院の隣に保健福祉センターをつくりたいと考えています。医療と連結して元気な人も来る病院、元気だからこそ医療について考える場所をつくり、町民の皆さんの健康の維持、健康寿命の延伸につなげていきたいので、当然病院への期待も大きいです。
——生甲斐元益というビジョンを実現する大きな手段が保健福祉センターであり、病院と連動して健康な人も行ける場所をつくるのが大きな骨格、という理解で大丈夫ですか?
坂田:そうですね。それから保健福祉センターは南海トラフ地震などの自然災害のことも考えて作りたいと考えています。地震が起きる可能性が高いと言われているので、負傷者が出ることも想定しておかなくてはいけないと思うんですよ。
そうした場合はやはり町内で唯一入院できる町立病院の医師が治療することになると思うんですよね。万が一病院に入りきらないほどの負傷者が出たときに、隣に保健福祉センターがあれば、治療の優先順位が高くない方たちを収容する施設としても使用できるのではないかと考えています。
——現在ローカルけんこうメディア「つのまる」は、都農町民の皆さんに日常的にタブレットで見ていただける環境になっています。今後つのまるはどのような役割を果たしていけばいいと思われますか?
坂田:先日老人クラブでお話をさせていただいたときに、「皆さんの元気は私達からすると『未来』なんです。だから私たちに10年後、20年後の元気なところを見せてください。今皆さんががんばっている姿は、子どもたちにとって『将来こうなりたい』という目標になります。だから『年を取ったから』ではなく『今だからこそやれる』というところをがんばって見せてください」とお伝えしたんですよ。
そうしたメッセージをつのまるでも出していただいて、皆さんに「何かせないかんな」という気持ちになっていただけたらありがたいですね。
——「自分たちの元気がまちの未来につながる」というのはいいですね!
坂田:高齢者の皆さんに今からがんばっていただいて「私たちもああいう風になりたいな」という見本が作れると、10年後、20年後の自立した都農町につながります。地域の活性化がまちの維持につながるので、私は今後も地域に出向いて「自助・互助」の話をしていきたいと思っています。